『バイオパンク―DIY科学者たちのDNAハック!』を読んで
本書は、近年アメリカで勃興しつつある、新しいタイプの"分子生物学者"たちの活動を描いた本である。ただし、"分子生物学者"という表現は正確でないかもしれない。というのは、彼(女)らは「学者」と聞いて一般的にイメージされるような大学の教員でもなければ、企業で研究開発に従事する研究者でもない*1。キッチンで培養した細胞で癌の治療法を研究したり、スーパーで買ったヨーグルトで毒物検査キットを開発したりするのが彼らのスタイルだ。本書によれば、彼らのような既存の体制に属さない新しいタイプのバイオ研究者(の活動)は『バイオパンク』と呼ぶらしい。 *2。
- 作者: マーカス・ウォールセン,矢野真千子
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/02/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 16人 クリック: 334回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
コンピュータ業界のアナロジーとしての"バイオハッカー"
著者は、本書の全体を通して、コンピュータ業界のアナロジーでバイオパンクを解釈しようとしている。企業に属さないハッカーたちが作り上げたオープンソース*3のLinuxが、マイクロソフトが作り上げたクローズドソースのWindowsに対抗しうる存在になったように、"バイオハッカー"たちも大学や製薬会社に対抗しうるといった具合に。確かにアップルの創業者スティーブ・ウォズニアックがガレージでの製造からスタートしたことを考えれば、誰かがキッチンで始めたバイオハックが将来思いもかけない様な発展を遂げるという想像も全くの絵空事とは言い切れない。機械工学や電子工学にはない困難さが遺伝子工学にあることを彼らは理解しているようだが、それ自体を研究課題として乗り越えようと奮闘している様子は頼もしくも感じる。
バイオハックへの逆風と規制
合成生物学に反対する ある市民団体のメンバーは、ガレージで未知の生命体が生み出されることに対する懸念を著者の取材に対して語っている。また、自宅でバイオハックに取り組んでいた芸術家が、FBIにテロの嫌疑を掛けられて起訴されるという事件が現実に起きているそうだ。これらの逆風に対してはバイオハックを擁護する立場から、それなりの反論が提示されている。特に、後者の事件に関して言えば悪名高き"愛国者法"による起訴であり、少なくとも本書を読む限りでは、私自身も理不尽さを感じた。
とはいえ、バイオハックが生み出すのが常に利益だけだという保証はどこにもないし、不利益が無視できるほど小さいという確証もないのも事実だ*4。実際、日本は国際条約*5に基づき、国内法によって遺伝子組換え実験を規制している。もっといえば、アメリカ以外のほとんどの国がこの条約に批准しているのだ。本書に登場するバイオハッカーの活動場所がアメリカに偏っている背景には*6、アメリカ以外ではバイオハッカーが合法的に活動すること自体が難しいという事情がありそうだ。
細かいツッコミ
メンデルはアマチュア?
著者は資産家だったチャールズ・ダーウィンや町の外科医*7に過ぎなかったエドワード・ジェンナーをアマチュア科学者として紹介している。そこまでは異存はない。ただ、後に"遺伝学の父"と呼ばれることになった修道士グレゴール・メンデルを「アマチュア生物学者」と評したのはどうなのだろう。修道院のあったブルノが当時の学問の中心から程遠い場所にあったのは事実だろう。しかし、著者自身も認めている通り彼の所属していた修道会では学究が推奨されていたし*8、メンデル自身の研究も修道院の敷地内でなされた。その意味では、遺伝の研究が修道士の業務の一環としてなされたと見るのは自然なことだし、だとすれば彼をアマチュアと呼ぶのは強引の感が否めない。
*1:中にはバイオハッカーとしてスタートして会社を起こした人もいるようだが。
*2:http://maradydd.livejournal.com/496085.html) ((http://en.wikipedia.org/wiki/Biopunk
*3:実際、設計図を公開したPCR機 (サーマル・サイクラー)の開発を進めるバイオハッカーがいるそうだ。
*4:これは理想的には個別に判断されるべきだし、中には考慮に足る不利益が想定されないようなケースもあるかもしれない。
*6:単に本書の原著がアメリカで出版されたためというだけではなく
*7:当時の外科医は地位が低く、その育成は大学ではなく徒弟制度の下でなされていたという。
*8:彼の修道院に限らず、当時の教会はまだ領地を有して領民から税をとっていたし、農学を含むテクノロジーは古来より修道院で培われていた。メンデルの庭は、現代日本で言えば地方自治体の農業試験場に近いものと見なすべきなのではないだろうか。